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楽園を遠く離れて

−−−− 趣味とか日常、ときどき同人 −−−−

レインツリーの国

 こんにちは、花宮です。



 一昨日のことになります。
 友人と『レインツリーの国』を観に行ってきました。
 座席はそれなり埋まっていました。


 この作品は、聴者(健聴者)と聴覚障害者の恋愛小説をもとに、映画化されたものです。
 わたしは最初に有川浩先生の作品を、『レインツリーの国』で知りました。そして同時に、男性作家だと勘違いもしていました。また別の友人に「有川浩って女性だよ?」と言われるまで、この人はやたらヒットを飛ばす男性作家だなぁ、という感覚で居ました(笑)。そういえばわたしが所属していた文芸部には、一見男性と見えそうなペンネームで書いていた子も居ました  女子大の文芸部でしたので、それは直ぐに分かってしまうことなのですが。

 その「有川浩は女性だって」と言った友人が放ったひと言は、
「なぁ、おねぇ(わたしのこと)、やっぱり健常者と障害者との恋愛には溝があるんかな?」
 でした。わたしはそのとき彼に何と答えたのか、覚えていません。残念ながら。
 そして彼は婚約していた女性と結婚し、わたしもお付合いしていた男性のもとへ嫁ぎました。あれから数年が経過しましたが、友人がこの話を覚えてくれているかまでは、正直わたしには分かりません。ただ、フェイスブックで、ときどき連絡を取ったりする程度ではあります。

 溝があるのか  全くない、と言えばそれは嘘でしょう。
 そしてそれは、障害のあるなしに関わらず、総ての恋人たちに言えることでありましょう。



 友人とわたしが上映されているところへたどり着いた時は、すっかり照明も暗くなっていました。
 微ネタバレをしてしまうと、伸の本棚、すなわち『フェアリーゲーム』の隣に立てかけられている文庫本に目がいきました。
 もちろん上映中なのでもう声には出せませんが、
マルスクやん! 冲方丁先生の本だよ!」
 『フェアリーゲーム』の隣には、そう『マルドゥック・スクランブル』が在ったのでした! ちなみにこの書物は版を重ねて実在し、最初に出た版、改訂を加えられた版、そして完全版の三種類が出版されています。
 最初のものはもう古書でないと手に入らないのですが、あとがきがありました(他の二種にはありません)し、参考資料文献もその名を連ねていたものです。わたしがSF、特にハヤカワ系にどっぷりとなるきっかけを作ってくれた、大切な本です。
 ……とりあえずマルスク愛はまたいつか、違う何処かで語りたいと思います。
 とにかく伸はSF系が好きなんだろうなー、と思わせる、しかし小ぶりな本棚でした。


 ところが。
 伸とひとみの初待ち合わせの場所は書店なのですが、伸がひとみに声をかけるところでまたしてもハヤカワの書棚が映り『楽園追放』『サイコパス』などが並んでいて、ここでも「おおっ」と思わせられました。
 他にも「おおっ」「これは!」と思ったシーンがありましたが、ここでは割愛させていただきます。まだ劇場へ足を運んでおられない方も多いでしょうし、全ネタバレしてしまったら良くないだろうなということで。
ツイッターでは、ところどころそんなにネタバレしないように書いてはありますが……)
 ふたりとも、どれだけSF好きなん……いやわたしが?(笑)


 映画は小説版とほぼ同じような進行です。
「愛さえあれば、なんて嘘だよ」  というのは作中に出てくるヒロインの台詞ですが、ああ確かにそりゃあ嘘だな(声:ディンゴ三木眞一郎さんで脳内再生←)と思いました。愛さえあればなんでも、だなんて本当に何でも乗り越えられるわけではないからです。
 わたしは思うのですが、ヒトのココロに愛という名の容れ物があったとして、許容量は個人差だ、と。そう思うわけです。マザー・テレサのように「愛しなさい、自分の心が痛くなるほどに」と堂々と言える人が居るかたわらで「愛って何なの?」と泣いている傷まみれの子どもが居る、両極端ではありますがそのような感覚でしょうか  そして伸もひとみも、その真ん中に居るわけです。

「ちょお待ってや。ひとりで何もかんも決めんといてや」
 これはヒロインが別れを選んだ時の伸の気持ちですが、このことばも言ってしまえば、これから会って(聴覚障害のことが)分かっていくひとみに対して、そしてヒロインの恋人であった少年の気持ちから出たものだろう、とわたしは感じました。
 ひとみはよく、ひとりでものごとを決めようとしてしまいます。「そうでないと不自然に見える」からという気持ちからくるものではありますが、周囲からはそれを「ワガママ」だとか「自己中」だとか思われてしまいます。のっけからこれで損してるなぁという感じがしましたが、障害を持って10年ならそんなもんなんだろうなぁ  と、スクリーンを見つめてやや冷めた気持ちで居るわたしの姿もありました。
 冷めた気持ちで居た、という話も、それが何故かは、また別の何処かで書きたいとは思いますが。



 さて、障害を負った人には『受容』が必要です。その為のプロセスも、無論のちのち必要となってきます。
 一生負っていかねばならない障害を持ったからだ、それと向き合う為のこころ、生きるたましい。
 わたしは心理学をやったわけではないのですが『受容の為にプロセスがある』という理解はあります。しかし、それがひとみの中でどのような役割を果たしたか、までは作中でえがかれていません。ひとみの性格からして「レジャーに連れ出してくれた親に対して怒る」というシーンはあまり想像出来ませんから、これから伸に聞いて貰うことになるのかも知れません。

 10年ありゃ充分じゃねぇの? と考えられる方もいらっしゃるかも知れませんが、わたしは「そうじゃない」と考えます。幼少期に音を失うことと、ある程度成長してから音を失うことは、違うからです。
 幼少期ならば特別支援学校(つまりろう学校)・学級に入るなりして、将来への見通しも同時に親子間で決められてゆくでしょうが、ひとみの場合は成長期真っ盛り(高校時代)に音を失うという設定になっています。「だから普通に喋れる」という設定も付いてきますが、ここでやはりわたしは「やっぱりそうじゃないなあ」と考えざるを得ないのです。
 ただ「体調で」「個人差で」「聴こえは変わる」というのを強調してくれたのには、激しく「そうだね」と同意します。


 成長期真っ盛りに音を失うということは。
 それまで抱いてきた夢がことごとく打ち破られる、ということでもあります。


 ひとみの、障害を負うまでの進路はなんだったのかな  と、わたしはつい考えてしまいます。
 もし音楽系の進路だったら、わたしは何を思うのかな。と。
 有川浩先生には、出来れば後日譚より前日譚を書いていただきたいなー。そんなふうにも考えています。



 障害メインの話になってしまいましたが、わたしは伸の気持ちが少し、ひとみの気持ちも少し分かります。少し、というのはわたしがふたりそのものではないからで、どうしても傍観者=観客 になってしまう立場に居るからです。
「理解は出来へんけれども」
「ひとみさんも俺の気持ち、理解出来へんやろうな」
 ひとみは「伸さんには分からない」と吐露します。それに対して伸はそう答えました。

   一卵性双生児ですら、完全理解など有り得ないのに、ましてやあかの他人どうしが何故。

 という前提がわたしの中では確立されているので「そりゃそうだろ」のひと言に尽きます。何故か、わたしの脳内では先ほどから三木眞一郎さんのお声で再現されていますが、お気になさらず。
 ただ「理解は出来へん・分からない」けど「分かり合おうとすることはやめたくない」  それがふたりを繋ぐ糸ではないかな、と感じました。何の(身体的・物理的)障害の無いカップルでも、そうだと思います。
 前々回のブログではないのですが「俺、なんであんな面倒くさい子が好きなんやろ」……そこはロジックじゃないよ、伸(苦笑)。
「ミサコさんと付き合うたら楽やろな。楽しいやろな。でも俺、直ぐに飽きられてしまうわ」
「俺、面倒くさい話とか、ややこしい話するのが好きやねん」





 上映後、友人がぼそっと言いました。
「他人の読書感想にケチつけるなんてクソリプだなあ」
「いや、あれツイッターじゃないから!」